創業者ヒストリー


創業者 谷村光久
社長室の壁。威厳を放つ巨大パネルの中で深い眼差しを湛えるその男の名は、株式会社谷村建設創業者・谷村光久である。「口うるさいオヤジやったなぁ」そう語りかけるのは三代目社長の澤田伸洋。この二人の男の強固な絆が、今日の谷村建設の礎である。
五島に生まれた谷村は、中学卒業後すぐに船に乗るも、下関の漁場で九死に一生を得る。これを機に谷村は運命を手繰り寄せるのだ。75歳で生涯を閉じるまで慕い続けた株式会社山口組・井手社長との出会いであった。山口組での勤務は、トラック運転手に始まり、道路舗装作業員、現場監督と多岐にわたった。50人もの作業員をまとめ上げ、厳しい工期と予算をクリアする豪腕ぶりを、人は賞賛を込めて「鬼の舗装屋」と呼んだ。昭和41年、満を持して独立。谷村組を立ち上げてからは、完璧な段取りと、研究熱心な仕事ぶりで発注が急増した。右肩上がりの好景気の波に乗り、売上高も好調だった。そんな中でも、谷村は社内を締め上げたという。
「俺たちは下請ぞ。どがんすれば儲かるや?三日かかる仕事は二日でやれ。昼も夜もあるもんか。それがプロの舗装屋たい。」
これが口癖やったな、と澤田は懐かしむ。しかし、厳しい鬼が唯一弱さを見せたことがあったという。平成に入ってすぐのゴルフ場開発失敗。未曾有の危機であったが、社員総出で苦境を乗り越えた。簡単に謝罪などしない谷村が「澤田よ、すまんかったな」と言ったのは、後にも先にもこの時だけだ。
「道を創るは街を創ること」と、建設業界全体が潤うことを常に念頭に置いてきた谷村が、病床で悔やんだ。西九州自動車道の完成まで、自身の体がもたないと悟ったからだった。令和になった今、西九州の地域経済を発展させるインフラの完成はもう間近だ。
仁義を貫き、頑固で豪傑。道路と共に昭和・平成を駆け抜けた男の情熱は、どこまでも繋がる道のように脈々と受け継がれていく。
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